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結論(その2)
三つ目の課題は人間が苦しみ困難に遭った時に神の心の動きはどう成っていますかという課題です。
過去において哲学では、神は「移り変わることなくすべてを動かす者」として描かれていました。そういう言い方をすると神がすべての物事の最終的な原因であられるのです。そして神は完全で、より完全な者に移り変わることができない者です。こういう言い方をすると神は静止的な者、被造物界に関係のない者としてしか考えられなくなります。
他の説明が必要でしょう。聖書によると神は無限の愛、完全な愛であられると主張します。愛以上に動的で力を持つ実在はありません。従って神は無限に動的であり、被造物界に親密な関係を持たれます。神は私たちに対して情熱的で慈悲深い愛を持っておられるのです。そして本当の憐れみ深さを持つなら共感してしまうのです。そして共感するなら苦しんでいる者、困難に遭った者を理解し、一緒に苦しみます。
では、「人間が苦しんでいる時に神は何処におられるのか」という質問の回答は「神は人間と一緒に苦しんでおられるのです」、と。エジプトで苦しんでいたヘブライ人と共に苦しんでおられ、夫を亡くした奥さんと一緒に苦しんでおられ、阪神大震災の時に被害者や被害者に関係している人々と一緒に苦しんでおられました。一緒におられるので、今の苦しみや悲しみを愛によって変えようとしておられます。見事に人々が助け合ったり、お互いに慰め合ったりしていることは神ご自身の業です。
つづく ブルゴアン
過去において哲学では、神は「移り変わることなくすべてを動かす者」として描かれていました。そういう言い方をすると神がすべての物事の最終的な原因であられるのです。そして神は完全で、より完全な者に移り変わることができない者です。こういう言い方をすると神は静止的な者、被造物界に関係のない者としてしか考えられなくなります。
他の説明が必要でしょう。聖書によると神は無限の愛、完全な愛であられると主張します。愛以上に動的で力を持つ実在はありません。従って神は無限に動的であり、被造物界に親密な関係を持たれます。神は私たちに対して情熱的で慈悲深い愛を持っておられるのです。そして本当の憐れみ深さを持つなら共感してしまうのです。そして共感するなら苦しんでいる者、困難に遭った者を理解し、一緒に苦しみます。
では、「人間が苦しんでいる時に神は何処におられるのか」という質問の回答は「神は人間と一緒に苦しんでおられるのです」、と。エジプトで苦しんでいたヘブライ人と共に苦しんでおられ、夫を亡くした奥さんと一緒に苦しんでおられ、阪神大震災の時に被害者や被害者に関係している人々と一緒に苦しんでおられました。一緒におられるので、今の苦しみや悲しみを愛によって変えようとしておられます。見事に人々が助け合ったり、お互いに慰め合ったりしていることは神ご自身の業です。
つづく ブルゴアン
結論(その1)
聖書に基づくこの二つの概念を良く考慮した時に次のような結論を出すことができるでしょう。
つまり イ 神が命を望むのだからこそ創造されるのです。しかしもちろん有限の物質的な物には当然限りがあり、傷つきやすいものであり、死ぬべき運命を持っているものであります。有限なものは自然の法則に従って破壊され、滅ぼされ、病気になり、死んでいくのです。物質である以上こういうふうになりかねないのです。もし神がこういう悪を避けたいと思えば始めから物質を創造しない方が良かったのです。キリスト信者としては神の愛が最終的に打ち勝つことになっていると信じます。イエスの体験によって死を通して新しい命が生まれるということが分かります。
ロ 神が自由意志を持ち、知恵を持ち、愛することができるものを創造されるのです。神が自由意志を創造された時、真の自由意志を創造されたのです。つまり後で人間の自由を妨げるつもりなら自由意志ではなくなります。妨げようとするなら始めから自由意志というものを造らない方が良かったのです。しかし同時に愛することができる者がいなくなります。自由意志があるからこそ愛というものもあるのです。自由意志がなければ本能だけ残ります。
今でも次のような発言を聞きます。「もし神がお望みだったら600万人を殺したヒトラーを止められたでしょう。」「もし神のみ旨なら婦女暴行者を止められたでしょう。」しかしもし人間が本当に自由意志を持っているのなら人間が自由に選んだ道を神が妨げることができるでしょうか。その自由意志を暴力の行ないで止めることができるでしょうか。無限の愛の神はそういう暴力ができるでしょうか。
神がお望みになるのは愛することができる者です。人を殺す者、暴行を働く者ではありません。しかし愛するためには自由意志が必要です。人間は自由に神のみ旨を無視するかそのみ旨に従って生きるか、それは人間の自由です。神ではなく、選択する人間が責任を負うのです。神は罪を廃止するためにはあるいは人間を創造しないでおくか、あるいは愛することができない人を創造するかです。
ハ 神の力は人間の振る舞いを支配できる無限の圧政者の力ではありません。神の力は無限の愛の力だけです。この愛は人の心や振る舞いを悔い改めさせ、その心や振る舞いを神聖にさせる力を持っています。しかしながらそれには人間が神の救いたる恵みを認め受け入れなければなりません。人間の協力がなければはっきり言ってそれ以上神は何もできません。
つづく ブルゴアン
つまり イ 神が命を望むのだからこそ創造されるのです。しかしもちろん有限の物質的な物には当然限りがあり、傷つきやすいものであり、死ぬべき運命を持っているものであります。有限なものは自然の法則に従って破壊され、滅ぼされ、病気になり、死んでいくのです。物質である以上こういうふうになりかねないのです。もし神がこういう悪を避けたいと思えば始めから物質を創造しない方が良かったのです。キリスト信者としては神の愛が最終的に打ち勝つことになっていると信じます。イエスの体験によって死を通して新しい命が生まれるということが分かります。
ロ 神が自由意志を持ち、知恵を持ち、愛することができるものを創造されるのです。神が自由意志を創造された時、真の自由意志を創造されたのです。つまり後で人間の自由を妨げるつもりなら自由意志ではなくなります。妨げようとするなら始めから自由意志というものを造らない方が良かったのです。しかし同時に愛することができる者がいなくなります。自由意志があるからこそ愛というものもあるのです。自由意志がなければ本能だけ残ります。
今でも次のような発言を聞きます。「もし神がお望みだったら600万人を殺したヒトラーを止められたでしょう。」「もし神のみ旨なら婦女暴行者を止められたでしょう。」しかしもし人間が本当に自由意志を持っているのなら人間が自由に選んだ道を神が妨げることができるでしょうか。その自由意志を暴力の行ないで止めることができるでしょうか。無限の愛の神はそういう暴力ができるでしょうか。
神がお望みになるのは愛することができる者です。人を殺す者、暴行を働く者ではありません。しかし愛するためには自由意志が必要です。人間は自由に神のみ旨を無視するかそのみ旨に従って生きるか、それは人間の自由です。神ではなく、選択する人間が責任を負うのです。神は罪を廃止するためにはあるいは人間を創造しないでおくか、あるいは愛することができない人を創造するかです。
ハ 神の力は人間の振る舞いを支配できる無限の圧政者の力ではありません。神の力は無限の愛の力だけです。この愛は人の心や振る舞いを悔い改めさせ、その心や振る舞いを神聖にさせる力を持っています。しかしながらそれには人間が神の救いたる恵みを認め受け入れなければなりません。人間の協力がなければはっきり言ってそれ以上神は何もできません。
つづく ブルゴアン
困難や苦難
次の問題に触れましょう。神が人間の困難や苦難を望まれるでしょうか。
「あの人が若くして亡くなったのは神の思し召しだった」という言葉を通夜やお葬式の説教の時に良く聞きます。司祭やシスターやブラザーの口から。何という慰め方ですかそれは? 酔っ払い運転による大学生の死について両親を納得させるために「神のみ計らいみ旨だった」という言葉を聞くと私は「そんな勝手な神は要りません」と怒りを感じます。火事の時に子供を失った両親の慰め方もそうです。「東北大震災が神のみ旨だった」、止めましょうよ、そんな馬鹿らしい言い方。そういう発言を聞くと心が痛みます。
何と言う神概念なんだろうと思ったりします。良く考えますとそういう発言・言い方をすることによって神の姿が恐ろしいものになります。その苦痛を望むなら愛の神とは言えません。そこで、ある人は区別します。「直接望むのではありません。実際人間の苦痛を止めることがおできになるが、より良い善あるいは目的のためにそうさせておくだけです。」、と。
考えてみてください。車が走ってきている時に4歳の娘が飛び出します。お父さんがそれを見て何もしません。させておいた理由は「若い内に危険性を覚えた方が良いでしょう」、と。事故を直接望んではいなかったがさせておいただけです。そんな常識があるもんか。神についても同じです。これからそういうような区別と言い方を止めましょう。そうでなければ間違った神概念を他の人に伝えてしまいます。
「神のみ旨」という表現を使う時に気をつけなければなりません。これらの問題について話したいならば聖書の概念二つを考慮しなければならないと思います。一つは神がお望みになるのは私たちが生きることです。私たちの死ではなく私たちの命を望んでおられるのです。もう一つは、神は愛の神であるということです。ヨハネの第一の手紙の中でこう言われます。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(I ヨハネ 4:7-8)」 そしてイエスは関連した教えの中で次のことを語られました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」 (ルカ 10:27)、と。
つづく ブルゴアン
「あの人が若くして亡くなったのは神の思し召しだった」という言葉を通夜やお葬式の説教の時に良く聞きます。司祭やシスターやブラザーの口から。何という慰め方ですかそれは? 酔っ払い運転による大学生の死について両親を納得させるために「神のみ計らいみ旨だった」という言葉を聞くと私は「そんな勝手な神は要りません」と怒りを感じます。火事の時に子供を失った両親の慰め方もそうです。「東北大震災が神のみ旨だった」、止めましょうよ、そんな馬鹿らしい言い方。そういう発言を聞くと心が痛みます。
何と言う神概念なんだろうと思ったりします。良く考えますとそういう発言・言い方をすることによって神の姿が恐ろしいものになります。その苦痛を望むなら愛の神とは言えません。そこで、ある人は区別します。「直接望むのではありません。実際人間の苦痛を止めることがおできになるが、より良い善あるいは目的のためにそうさせておくだけです。」、と。
考えてみてください。車が走ってきている時に4歳の娘が飛び出します。お父さんがそれを見て何もしません。させておいた理由は「若い内に危険性を覚えた方が良いでしょう」、と。事故を直接望んではいなかったがさせておいただけです。そんな常識があるもんか。神についても同じです。これからそういうような区別と言い方を止めましょう。そうでなければ間違った神概念を他の人に伝えてしまいます。
「神のみ旨」という表現を使う時に気をつけなければなりません。これらの問題について話したいならば聖書の概念二つを考慮しなければならないと思います。一つは神がお望みになるのは私たちが生きることです。私たちの死ではなく私たちの命を望んでおられるのです。もう一つは、神は愛の神であるということです。ヨハネの第一の手紙の中でこう言われます。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(I ヨハネ 4:7-8)」 そしてイエスは関連した教えの中で次のことを語られました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」 (ルカ 10:27)、と。
つづく ブルゴアン
悪いことの原因(その2)
昔は前回に書いてあるような説明の仕方の傾向があったことは当然です。自然界についての知識がなかったからです。地震の自然的な原因、台風の自然的な原因、人間の振る舞いに影響する心理的な原因などがその当時不明でした。当然目に見える出来事を説明できなければ、目に見えないところに原因を置くことが普通でしょう。今日では科学的にいろいろ説明できます。だから悪魔や神を悪の原因にしなくても良いのです。
それでは誰が人間に起こる悪いことの原因なのか、その悪をもたらすのは誰でしょうか。二つの種類の悪をより分けましょう。直接に人間による悪と人間によらない悪つまり自然現象によるものに分けます。多くの困難や悪は人間によるものです。何故8歳の子供が誘拐され殺されたのですか。答えは「ある人間がそうしたから」です。それ以上理由がありません。何故14歳の女の子が自転車に乗っていた時に赤信号を無視した人の車にぶつけられたのでしょうか。その人が「赤信号を無視したから」です。「神に娘の無事を祈っていたのに」と言う必要はありません。
何故私たちは神秘のない処に神秘を置こうとしがちなのでしょうか。明確に分かっている時に何故目に見えない処に原因を探し、出来事をより複雑なものにしようとするのですか。自分の責任を取れば神に原因を置かなくても済むのです。人間の罪から来るもの、人間の異常から来るもの、人間の愚かさから来るものを素直に認めましょう。
そして自然現象による悪があります。それは自然現象による死 (心臓麻痺、脳卒中、癌など)あるいは自然現象による災害(台風、地震など)というものです。原因が明らかであるのに何故それ以上のものを探すのですか。私たちの身体がいつかは病気や高齢などで地上から消えてしまいます。自然現象によって天気が崩れます。それを認めなければゆがんだ神概念に落ちてしまいます。
つづく ブルゴアン
それでは誰が人間に起こる悪いことの原因なのか、その悪をもたらすのは誰でしょうか。二つの種類の悪をより分けましょう。直接に人間による悪と人間によらない悪つまり自然現象によるものに分けます。多くの困難や悪は人間によるものです。何故8歳の子供が誘拐され殺されたのですか。答えは「ある人間がそうしたから」です。それ以上理由がありません。何故14歳の女の子が自転車に乗っていた時に赤信号を無視した人の車にぶつけられたのでしょうか。その人が「赤信号を無視したから」です。「神に娘の無事を祈っていたのに」と言う必要はありません。
何故私たちは神秘のない処に神秘を置こうとしがちなのでしょうか。明確に分かっている時に何故目に見えない処に原因を探し、出来事をより複雑なものにしようとするのですか。自分の責任を取れば神に原因を置かなくても済むのです。人間の罪から来るもの、人間の異常から来るもの、人間の愚かさから来るものを素直に認めましょう。
そして自然現象による悪があります。それは自然現象による死 (心臓麻痺、脳卒中、癌など)あるいは自然現象による災害(台風、地震など)というものです。原因が明らかであるのに何故それ以上のものを探すのですか。私たちの身体がいつかは病気や高齢などで地上から消えてしまいます。自然現象によって天気が崩れます。それを認めなければゆがんだ神概念に落ちてしまいます。
つづく ブルゴアン
悪いことの原因(その1)
前回の文書のまとめとしてこういうことを言えるでしょう。昔は人間の苦難と神についてこういうような説明の仕方の傾向があったことは当然です。自然界についての知識がなかったからです。地震の自然的な原因、台風の自然的な原因、人間の振る舞いに影響する心理的な原因などがその当時不明でした。当然目に見える出来事を説明できなければ、目に見えないところに原因を置くことが普通でしょう。今日では科学的にいろいろ説明できます。だから悪魔や神を悪の原因にしなくても良いのです。
今回悪いことの原因について考えたいと思います。
それでは誰が人間に起こる悪いことの原因なのか、その悪をもたらすのは誰でしょうか。二つの種類の悪をより分けましょう。直接に人間による悪と人間によらない悪つまり自然現象によるものに分けます。多くの困難や悪は人間によるものです。何故8歳の子供が誘拐され殺されたのですか。答えは「ある人間がそうしたから」です。それ以上理由がありません。何故14歳の女の子が自転車に乗っていた時に赤信号を無視した人の車にぶつけられたのでしょうか。その人が「赤信号を無視したから」です。「神に娘の無事を祈っていたのに」と言う必要はありません。
何故私たちは神秘のない処に神秘を置こうとしがちなのでしょうか。明確に分かっている時に何故目に見えない処に原因を探し、出来事をより複雑なものにしようとするのですか。自分の責任を取れば神に原因を置かなくても済むのです。人間の罪から来るもの、人間の異常から来るもの、人間の愚かさから来るものを素直に認めましょう。
そして自然現象による悪があります。それは自然現象による死 (心臓麻痺、脳 卒中、癌など)あるいは自然現象による災害(台風、地震など)というものです。原因が明らかであるのに何故それ以上のものを探すのですか。私たちの身体がいつかは病気や高齢などで地上から消えてしまいます。自然現象によって天気が崩れます。それを認めなければゆがんだ神概念に落ちてしまいます。
つづく ブルゴアン
今回悪いことの原因について考えたいと思います。
それでは誰が人間に起こる悪いことの原因なのか、その悪をもたらすのは誰でしょうか。二つの種類の悪をより分けましょう。直接に人間による悪と人間によらない悪つまり自然現象によるものに分けます。多くの困難や悪は人間によるものです。何故8歳の子供が誘拐され殺されたのですか。答えは「ある人間がそうしたから」です。それ以上理由がありません。何故14歳の女の子が自転車に乗っていた時に赤信号を無視した人の車にぶつけられたのでしょうか。その人が「赤信号を無視したから」です。「神に娘の無事を祈っていたのに」と言う必要はありません。
何故私たちは神秘のない処に神秘を置こうとしがちなのでしょうか。明確に分かっている時に何故目に見えない処に原因を探し、出来事をより複雑なものにしようとするのですか。自分の責任を取れば神に原因を置かなくても済むのです。人間の罪から来るもの、人間の異常から来るもの、人間の愚かさから来るものを素直に認めましょう。
そして自然現象による悪があります。それは自然現象による死 (心臓麻痺、脳 卒中、癌など)あるいは自然現象による災害(台風、地震など)というものです。原因が明らかであるのに何故それ以上のものを探すのですか。私たちの身体がいつかは病気や高齢などで地上から消えてしまいます。自然現象によって天気が崩れます。それを認めなければゆがんだ神概念に落ちてしまいます。
つづく ブルゴアン




